カラフルxカラフル通信

多様性について考えつつ、思いつくままに書いたりします。多文化共生/ダイバーシティ/LGBT/カルチャー/海外旅行/時事問題等

存在のない子供たち


レバノンで大規模なデモが起きているというニュースを見てこの映画のことを思い出したので感想交えてエントリー。レバノンは経済的・財政的に困窮しているとのことで、増税などの新たな政策に市民が反発しているとのことです。

この「存在のない子供たち」では、レバノンの首都ベイルートでの貧困世帯や移民の困窮が描かれる社会的メッセージの強い作品です。なので、今回のデモとは関連性の強い作品と言ってもいいと思います。

映画自体は、何と言っても主役の少年ゼインが素晴らしくて、演技はもちろん、キャラクターもとても良かったです。生意気だけど純粋で正義感の強いゼイン。不法滞在のエチオピア人女性ラヒルやその赤ん坊のヨナスとの交流は、暗くなりがちなこの作品の中でも心が澄みきったような気持ちになれました。ゼインに向けるまなざしはとても丁寧で時間もかけています。そう言った主人公に寄りそうような作品づくりがカメラワーク、そして画面からにじみ出ているのが最大のポイントだったと思います。

テーマとして、貧困や児童婚、移民、難民など多岐にわたります。映画の製作にはフランスの企業なども見られますが、監督もロケーションも全てレバノンで、エンドクレジットを見ると政府系機関も見られるので、そういった土壌がレバノンにあるというのは少し驚きでした。世界的に評価が高いナディーン・ラバキー監督は期待の星なので、全面的にバックアップしているのかも。

ただ、そういった諸問題の批判の矛先が「社会」や「大人」には向かっていても、「政策」などに向いていないのは少し気になりました。(これだけ問題が多ければ政策の失敗はあると思う)上記のバックアップなどの諸事情があるのかも、など穿った見方をしたりしつつ…。今作のちょっと気になりポイントですね。

さて、レバノンという国、なかなか日本では馴染みがないかもしれません。中東にある国、ぐらいの認識の人も多いのではないでしょうか?
個人的にも馴染みが薄かったものの、最近気になる国の一つでもあります。地理的にはシリアとイスラエルに挟まれた歴史ある地域で、宗教的にはイスラム教とキリスト教がおおよそ半々、さらにイスラム教はドゥルーズ派、スンニ派、シーア派など、キリスト教はマロン派が最大…と宗教的モザイク国家となっています。

ちなみに、かの有名なカルロス・ゴーン氏はレバノンのマロン派の家系でブラジル出身、レバノンとフランスでも居住経験があり、それぞれの国籍を持っているようです。

ゴーンさんのように海外で暮らすレバノン人も多く、ブラジルやオーストラリア、フランス(=旧宗主国)、湾岸アラブ諸国など世界中にネットワークを持っているとのこと。レバノン移民は歴史も古く、ビジネスや留学など目的も時期などによって多岐にわたるようです。

こんなレポートもネット上で読めました。「レバノン人の越境移動に関する 経験と意識 「新しいフェニキア人」像の再考」

一方でレバノンは1975年〜1990年に内戦を経験し、これによってさらに多くの移民・難民を生み出しました。内戦の原因は主に宗教対立ですが、中東戦争の影響も大きく、シリアやイスラエルなど近隣国の干渉も受けて各派の対立は泥沼化してしまいました。

積極的な移民でゴーン氏などの富豪を生み出した一方で、内戦での破壊によって経済の停滞と貧困に苦しんでいるのですよね…。

内戦終結後のレバノンはシリア・イラン、イスラエルなどの影響に悩まされつつ、努力と工夫によって宗教バランスと平和を維持しているようなので、このまま安定して貧困問題も解決されることを祈りますが、この複雑さを読み解くにはまだ不勉強なので、何か良さそうな読み物があれば読んでみたいと思っているところです。

中途半端ですが、今回は以上です!

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ナディーン・ラバキー
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2009-07-24


クロアチア・ボスニア観光旅行の思い出シリーズ最終回です!(2011年の旅行です。念のため)

サラエボ編

サラエボはボスニア・ヘルツェゴビナの首都で、地理的にも国土の中心に近い位置です。歴史的にもサラエボ事件サラエボオリンピックで有名ですね。

もちろん、90年代に勃発したユーゴ内戦(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)でも激戦の舞台となり、4年間もの間包囲され砲撃、狙撃されたニュースを覚えている方も多いのではないでしょうか。

直前に観光したモスタルからは再びバス移動になります。バスはなかなかのスピードで飛ばしていました。基本的に山道ですが、前の車をビュンビュン追い抜くので少々恐怖を覚えた記憶が…。

さて、そんなサラエボですが、首都だけに活気があって見所は多いです。ただし、モスタル以上に観光向きではありません。しかも、何度もお伝えしている通り私が旅行したのは2月で、ボスニアは極寒です。モスタルは強風が吹き付けてきましたが、サラエボは滞在した1日半の間一度も晴れず、気温が0℃を上回ることはありませんでした。。

街を見ると観光客と思われる人といえば、西欧方面からきたと思われるスキー客をちらほら見かけました。オリンピックが開催されただけあってスキー場が充実しているのかもしれません。また、日本人はおろか東洋人は1度も見かけませんでした。観光地ではないぶん、特に声をかけられることもないですが、現地の子供たちにはジロジロみられたり笑われたりしました(苦笑)。

ボスニア・ヘルツェゴビナでは「兌換マルク」という通貨を使用します。これは独立紛争後にドイツの支援で経済復興した名残のようです。ちなみにキューバ旅行の際は「兌換ペソ(CUC)」を使いましたが、これは観光客向けの通貨でした。

また、ボスニア・ヘルツェゴビナは今でもEUが治安維持の一部を担っており、街中でもドイツ軍らしき 兵士の姿を見ることができました。

サラエボは約半数の住民がイスラム教徒で、街中ではモスクで礼拝している様子が見れたりします。金髪の青年が、つまりいかにもヨーロッパの見た目の人が礼拝しているのは、先入観を覆してくれるので興味深いものがあります。ただ、ボスニアのイスラム教はかなり世俗的なようで、ヒジャブの女性などは極めて少ないです。おそらく宗教学校の帰りと見られる女子生徒くらいでした。またレストランではお酒の提供もあり、むしろビールは名物のようです。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、サラエボで撮った写真をご紹介します。

サラエボ事件で有名なラテン橋

サラエボ事件で有名なラテン橋。ここでオーストリア皇太子が暗殺され、第一次世界大戦のきっかけに。

サラエボ旧市街地の噴水

旧市街地の噴水。凍ってました。。

旧市街地

旧市街地

オリンピックスタジアム跡

少し足を伸ばしてオリンピックスタジアム跡へ。内戦で墓地が足りなくなり敷地が墓地になっています。墓地の写真を撮るのは躊躇したのでこれだけ。



トンネル博物館

こちらは「トンネル博物館」。内戦時に包囲されたサラエボ市民側が弾薬や物資の調達に利用したトンネルが保存されています。

トンネル博物館内部

トンネル博物館内部

サラエボ空港

サラエボ空港。この旅もおしまいです。


サラエボ市内観光は、旧市街地→オリンピック会場跡地→トンネル博物館という感じで周りました。旧市街は観光客もたくさん(?)いて、お土産なども売っています。有名なお土産は空の薬莢を使ったお土産です。ペンとかあります。内戦で大量の薬莢が街に散乱していたのでそれを名物にしたみたいです♪

オリンピック会場跡地は観光地でもなんでもありませんが、広大な墓地が有名なので見に行きました。現地は誰もいなくて少々怖かったですが、聞いた話通りの状況と広大さに圧倒されてしまいました。途中、ローカルなマーケットを見かけましたが、観光地や中心部のそれと違って非常に雑多な感じで生活必需品などが売られていたので興味深かったです。

トンネル博物館は説明の通りですが、建物が銃弾の跡だらけなことなどはもう慣れっこになってしまいました。サラエボは市街地も建物は銃弾痕だらけなので…ちなみに泊ったホテル(Hotel Central)の窓から見える建物も穴だらけでした。

そんなサラエボですが、市街地は比較的広くて、旧市街地以外でも大きなショッピングモールやホテルなどがあり、活気がありました。治安などが心配、という声もあるかもしれませんが、街は平穏そのもので、銃弾痕さえなければ内戦があったことなど気づかないほどです。

内戦がサラエボ、そしてボスニア、旧ユーゴスラビアに消えない傷を残したのは事実ですが、地下トンネルを築いて包囲に抵抗したタフさや、戦後復興して力強く生活している様を実際に見ることができて少し安心したというか嬉しくも感じました。とっても好きな街になりましたよ。なかなか気軽には行けませんが、ぜひまた訪れたいです。

旅行中読んでいた本をご紹介

この本を事前に購入して旅行中に読んでいました。非常に興味深かったのでご紹介します。



非常に簡単に説明すると、ボスニア紛争時に独立派と反独立側双方が繰り広げたプロパガンダ合戦の様子を記したドキュメントです。欧米、特にアメリカの世論を動かすことを重要視して双方ともアメリカの「PR会社」つまり広告代理店のような存在ですが、企業に依頼して「どちらが悪か」というPR合戦を繰り広げたという実態が取材されています。当時のことを覚えている方ならわかると思いますが、一連の内戦ではセルビア人勢力側が圧倒的な「悪」として認知されました。しかし実態としては双方とも戦争犯罪の応酬があり、戦後に設置された国際戦犯法廷でも双方が裁かれています。もちろん、軍事的に優位だったセルビア人勢力側の方が大規模な破壊や虐殺が多かったのではないかと思いますが、事実以上に圧倒的に善悪が決まってしまったのはこのPRの成果だったという恐ろしい実態です。

それでは、この旅行記もおしまいです。余談ですが、この旅行から帰ってきた1ヶ月後くらいに東日本大震災が発生して旅行の楽しい思い出も吹っ飛んだことをよく覚えています。今となってはこれも思い出と言えるのか…。



サラエボ、希望の街角 [DVD]
ズリンカ・ツヴィテシッチ
アルバトロス
2011-09-02



クロアチア・ボスニア観光旅行の思い出シリーズ!初回のザグレブ編と前回のドゥブロヴニク編はクロアチアでしたが、ついにクロアチアを出てボスニア・ヘルツェゴビナに入ります!今回はクロアチアに近い観光地モスタルを訪れます。(2011年の旅行です!念のため)

モスタル編

モスタルはボスニア・ヘルツェゴビナ南部の都市で、オスマン帝国時代に作られた「スターリ・モスト」という石橋が世界遺産に登録されています。これは色々いわくつきの橋なのですが、後ほど説明します。
ドゥブロヴニクからはバスで3〜4時間の道のりです(もう忘れましたので調べました笑)。夏場などの観光シーズンには、ドゥブロブニクからオプションツアーとして観光客が数多く訪れるそうです。ただし、私が旅行した2月は観光客はまばらでした…!!山に囲まれた地形のせいか強風が吹いて寒かった。。

記憶が定かではないのですが、旅行会社が用意してくれたバスのチケットと乗り方の案内を見てバスターミナルで該当のバスに乗りました。路線バス的なものなので、地元の少年がバスの中で勉強していたりも。
ちなみに、このバス移動の間には、クロアチア→ボスニア→クロアチア→ボスニアと国境をまたぎます。というのも途中にネウムというボスニアの都市があるんです。ボスニア・ヘルツェゴビナは基本的に内陸国ですが、ここが唯一の海岸線なのだそうで、過去に条約などで決まったそうですよ。(→wikipedia
国境を越える時は一応職員?がバスに乗って簡単なパスポートチェックだけやっていました。

そんなこんなで3〜4時間も乗っていた記憶はあまりないのですが、もちろん無事にモスタルに到着しました!

モスタルの街並み。真ん中がスターリ・モスト

モスタルの街並み。真ん中がスターリ・モスト

モスタルの街並み。ネレトヴァ川

同じくモスタルの街並み。ネレトヴァ川。

FH010023

スターリ・モストを歩いて渡ります。建物の建て方がすごい。

スターリ・モストにある「DON'T FORGET '93」

スターリ・モストにある「DON'T FORGET '93」

モスタルの旧市街地

モスタルの旧市街地。閑散期なので人はまばら。

モスク

モスク



内戦で破壊されたままの建物

内戦で破壊されたままの建物。看板には「学校」の文字が。

新調された建物の隣は焼け焦げたまま

新調された建物の隣は焼け焦げて大量の銃痕が残ったまま

郷土料理のお店でトルコ風コーヒーをいただく。

郷土料理のお店でトルコ風コーヒーをいただきました


さて、写真を見てお気付きの通り、少なくともこの時点(2011年)では内戦の痕跡が生々しく残っていて衝撃を受けました。内戦終結から約15年が経っていたわけですが、相当な破壊があったことが伺い知れます。

はじめにスターリ・モストを「いわくつき」と言いましたが、この橋は1993年に内戦で破壊され、2004年に再建されています。内戦の象徴でもあり、その後の和平の象徴でもあるわけですね。ちなみに再建の翌年に世界遺産に登録されています。
今では飛び込み大会も有名ですよ。

旧ユーゴの内戦と言えばセルビア人主体のユーゴスラビア連邦とセルビア人民兵勢力が、独立を果たそうとするクロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナを攻撃しているイメージが強いのですが、ここモスタルに関してはクロアチア人とボシュニャク人(イスラム教徒)そしてセルビア人が三つ巴の争いを繰り広げ、泥沼化した地域でした。ガイドブックやwikipedeaなどによると、現在ではセルビア人の多くは街を去り、クロアチア人とボシュニャク人がネレトヴァ川を挟んで分離する形で生活しているそうです。



内戦の話ばかりになってしまいましたが、モスタルは写真の通り風光明媚な街です。旧市街も散策できるし、ケバブやソーセージやコーヒーなどのトルコ風味の強い料理も楽しめます。でも何度も言うように冬はめちゃくちゃ寒いしめちゃくちゃ閑散としています!この旅行で一番閑散期に行くべき街ではないことがわかりました(涙)。

この後、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サラエボに移動しますが、内戦時最大の激戦地だったサラエボも内戦の跡が相当に残っていました。ただ、上の写真にあるように放置された廃墟などはもう少なかったので、その点、モスタルを観光したのは貴重な体験でした。
それでは、次回のサラエボ編もお楽しみに!

↓なんと、最新の地球の歩き方「中欧」は表紙がモスタルじゃないか!?




さて、前回はザグレブ編をお伝えしたクロアチア〜ボスニア旅行の思い出ですが、今回はドゥブロヴニク編をお届けします。

ドゥブロヴニク編

ドゥブロヴニクはクロアチアの中では南端に位置し、アドリア海に面した街です。城壁に囲まれた旧市街地はオレンジ色の屋根で統一され、その美しい街並みから「アドリア海の真珠」と呼ばれ、ヨーロッパ各地から観光客が訪れる観光都市であり、世界遺産にも登録されています

ザグレブを含む北部がオーストリアの影響を強く受けているのに比べて、ドゥブロヴニクなどの南部の海岸都市は、イタリアの影響も受けています。特にドゥブロヴニクは歴史的にイタリアの海洋都市と交流が多く、イタリア系の住民が多い時期もあったそうです。

1990年代に起きたユーゴスラビア紛争でセルビアやモンテネグロから砲撃され(1991〜1992)、その傷跡がまだ少しだけ残っていました。

ドゥブロヴニクの美しい街並み

こんな感じの美しい街並み

ドゥブロヴニクの海

海もきれい

城壁から海を望む

城壁から海を望む



砲撃の跡?

戦争で受けた砲撃の跡?(詳細不明です)

ドゥブロヴニクのネコ

道案内してくれたネコ。ドゥブロヴニクにはネコがたくさんいます。

港

ドゥブロヴニク旧市街内部

ドゥブロヴニク旧市街内部

スルジ山からの眺め

スルジ山(後述)からの眺め

ヒルトン・インペリアル・ドブロブニク

泊まったホテルはこんな感じ(ヒルトン・インペリアル・ドブロブニク)


さて、この旅行は2011年の2月だったのですが、夏のリゾート地であるドゥブロヴニクは2月は完全に閑散期に当たり、閉店してしまっているお店もあるのでその点ではあまりオススメはしません(笑)。
ただしかなりリーズナブルなので、ヒルトンホテルにも泊まれました(立地がとても良いです!)。あと、夏場はおそらく大変混雑すると思うのですが、一切行列することもなくスムーズに観光できました。



閑散期エピソード
ここでこぼれ話ですが、写真でも紹介した通り、街全体を一望できるスルジ山という小高い山が街の背後にあります。街と山頂をつなぐロープウェイがあったのですが、戦争で破壊されてしまいました。旅行にいく数年前に再建されたというニュースがあったのでぜひ乗ってみようと思い、インフォメーションで聞いてみると「行けば乗れるよ!」とのこと。しかし行ってみると「今は営業してない」と言われてしまいました。そこにいる君たちは一体何の仕事を…。仕方がないのでタクシーで山頂まで行き、優しい運転手さんに写真を撮ってもらったりした次第です。
このロープウェイは現在運休しているという最新の情報もあるのですが、山頂からの眺めは最高なのでオススメです!

FH010014

スルジ山山頂のロープウェイ(ケーブルカー)の駅

スルジ山の山頂にある十字架

スルジ山の山頂にある十字架


ドゥブロヴニク旧市街は小さな街ですから、ぜひたっぷり散歩してみてください。修道院や、ヨーロッパ最古の(?)薬局にも行きましたが、狭い路地や城壁歩きがこの街の1番の楽しみだと思います。

では、次回からボスニア・ヘルツェゴビナに入り、モスタル編をお届けします!


久々に海外旅行の記事を書いてみます。

今回はクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナを旅行した時のお話です。とは言っても、これはもうかれこれ9年ほど前の話で、詳細には覚えていないことも多いので写真をメインにお伝えしようと思います。今はだいぶ変わっている点もあるかもしれませんが、比較的情報が少ない地域なので旅の参考にでもしてもらえればと思います。

なぜこの2か国を選んだか少しだけ触れると、私の妻がクロアチアのドゥブロヴニクに行ってみたいと言っていたことから始まります。ドゥブロヴニクは世界遺産の街であり、「アドリア海の真珠」とも呼ばれる美しい街として知られています。 ただ、クロアチアはそれほど広い国でもないのでもう1か国選ぼうということになり、スロベニアやギリシャなどが候補に上がりましたが、私が映画を通して気になっているボスニア・ヘルツェゴビナに行くことにしました。

クロアチアやボスニアはユーゴスラビア紛争で激戦の地となり、多くの映画の題材となったり作中に引用されたりして、ヨーロッパの映画に大きな影響を及ぼしました。私がみたのは、「ウェルカム・トゥ・サラエボ」「ブコバルに手紙は届かない」「ノー・マンズ・ランド」「アンダーグラウンド」「ユリシーズの瞳」などなど…。

そんなこんなで美しい街や戦闘の跡が待つこの旅行に出かけることになりました。今回はザグレブ編。
ちなみに飛行機は成田〜ウィーン〜ザグレブでした。

ザグレブ編

ザグレブはクロアチアの首都です。こじんまりとしていますが、整然として美しい街です。歴史的・文化的にはオーストリアの影響が強いらしく、カツレツが名物料理です(美味しかった)。

トラム

トラム

公共機関の建物?

公共機関の建物?詳細不明です。

マーケット

マーケット

旧市街

旧市街



可愛らしいお店

可愛らしいお店

聖マルコ教会

ザグレブ旧市街のシンボル的存在、聖マルコ教会

聖母被昇天大聖堂

聖母被昇天大聖堂。内部も見学しました。

主に旧市街をブラブラして、教会や博物館を見たり、ボバンという有名なサッカー選手のお父さんが経営しているというカフェに行ったり、先述のようにカツレツを食べたりしたくらいですね。それほど観光地っぽい街ではないので1日あれば主なところは見れてしまいます。あと、到着した日が日曜日だったため営業していないお店がたくさんありました。少し注意が必要です。さて、次回はドゥブロヴニク編をお届けします。


私は世界中で天災や戦災が起きた際に少額ですができるだけ寄付をするようにしています。
近年だと東日本大震災や難民問題などに対して各NGOやNPOに寄付しています(多くの団体は特定の災害や地域に対しても寄付ができます)。

その中でも初期の頃から何度か寄付してきたのがオックスファム(oxfam)でした。
オックスファムはイギリスで誕生し、世界中の貧困や格差の是正などに取り組んできた団体で、歴史も実績も多く、非常に知名度の高い団体です。世界中で被災者への救援にも取り組んでいます。
日本でオックスファムに寄付しようとした場合オックスファム・ジャパンという国内団体を通じて寄付することになります。

oxfam
オックスファムジャパンのウェブサイトより


先日寄付先を検討していたところ、このオックスファム・ジャパンが解散していることに気づきました。
まだウェブサイトは残っているのですが、2018年の10月1日付で解散のリリースが出されていました。
特定非営利活動法人オックスファム・ジャパン解散のお知らせ

理由としては「ここ数年、経営資源上の問題が悪化したことから、何度か立て直しをはかってまいりましたが、オックスファム国際NGO連合(Confederation)の一員として自立していくことが困難と判断」したとなっています。
つまり日本での活動資金が集まらず解散を決定したということかと思います。

ただ、オックスファムに関しては2018年に致命的な不祥事が発覚しており、そのことが原因なのではないかと個人的には考えています。

不祥事というのは、2011年にハイチ地震への支援活動中に職員による買春行為があり、処分されたもののそれを適切に公表していなかったことや、目撃者を脅迫したり、少女買春があったという疑惑まで報道されました。
オックスファム、ハイチ不祥事の報告書を公表 疑惑職員が証言者を「脅迫」(BBC)
英政府、オックスファムの児童買春スキャンダルで関係見直しも(AFP)

この不祥事は世界中にショックを与えましたし、これで寄付が激減したことは容易に想像できます。現在進行形で国際団体として経営危機にあったとしても不思議ではありません。



当然国内団体であるオックスファム・ジャパンでも職員が辞めてしまったり、寄付が集まらないということが起きたと思います。それをまとめて「経営資源上の問題が悪化」と言っているのではないかな・・。

私も不祥事を知って、当面寄付することはないだろうなと考えていましたが、こうもあっさり国内団体が解散してしまうとそれもまたショックなことではあります。ただ、不祥事の深刻さを考えれば仕方ないことかと思いますので、代わりになる団体を探そうと思います。

JENの不祥事

これは余談でもありますが、オックスファムの件があったので他の団体も探していたのですが、日本国内発祥で国際的に活動するJENという団体があります。活動内容としては災害支援や難民支援です。
今まで寄付したことがなかったのですが、国内の団体にも頑張ってもらえれば…と思って見てみたところ、こちらにも不祥事のアナウンスが…。
JEN職員の不適切な事業執行行為について
こちらは2018年4月付でした。

内容としてはヨルダンの難民キャンプで、インフラ整備や教育事業として受け取った助成金を映画館の建設に利用したこと(目的外使用)や、帳簿の管理が不適切、事務所長の親族の会社と取引を行なっていたこと(内規違反)だということです。

オックスファムの不祥事と比べれば、内容的にもマシだし、内部調査や公表もしっかりしているのでその点は少し安心したのですが、こう立て続けに不祥事がらみの声明を読んでるいると落胆してしまいますね…。

しっかり立ち直ってほしいと思いますし、また支援したくなるよう活動で良い成果を出してもらえたらなと思います。

慈善活動をしている人たちが聖人君子であるとか、絶対に品行方正だと思ったことはないし、不祥事があること自体は仕方ないと思います。どんな企業や団体でも従業員による不祥事などはありますから。 それを繰り返さないようなガバナンスの見直しや支援者への適切な伝達を欠かさないようにしてほしいですね。ということで、また寄付先を探していこうと思います!



オックスファムの件ですが、そのうちウェブサイトも消えてしまうと思いますので、解散の声明をここにコピーしておきます。

特定非営利活動法人オックスファム・ジャパン解散のお知らせ

2018/10/01

 特定非営利活動法人オックスファム・ジャパンは、2003年の設立以来15年にわたり、皆様のご厚情とご協力をいただき本日まで活動して参りましたが、2018年9月28日に解散総会を開催、そこでの承認により、9月30日をもって日本における15年の活動に終止符を打ちました。皆様の暖かいご支援のなかでの苦渋の選択となりましたが、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。

 オックスファム・ジャパンは、2003年にNPO法人として設立し、みなさまのご支援を受けて「貧困のない社会」を目指して、本日まで活動をして参りました。2012年にはオックスファム国際NGO連合(Confederation)の一員(アフィリエイト)になりました。以来、多くの寄付者の皆様、企業、財団、政府のご支援やオックスファム国際NGO連合の協力のもと、様々な活動を行ってまいりました。格差・不平等、ジェンダー・ジャスティスなどのテーマで日本政府や国際機関に対する政策提言やアドボカシー活動、人道支援活動、国際協力プログラム、ショップ活動など、幅広い事業を実施しました。

 2011年3月11日に東北地方を襲った東日本大震災では多くのご支援をいただき、女性支援を中心とした復興支援活動を行ってきました。また2015年からは富士・箱根で行ってきたトレイルウォーカーの活動を福島県に移し、復興支援活動の次の段階として現地との新たな関係を築いて参りました。また社会正義にコミットする若者のネットワークも構築してまいりました。

 しかしながら、ここ数年、経営資源上の問題が悪化したことから、何度か立て直しをはかってまいりましたが、オックスファム国際NGO連合(Confederation)の一員として自立していくことが困難と判断するに至り、今年の3月に理事会として解散の方向性を決定いたしました。

 これまでオックスファム・ジャパンとともに貧困と格差のない社会を目指して共に活動をしてきてくださった支援者の皆様、職員、連携・協力をお願いしてきた団体や個人のみなさまに、心より感謝を申し上げたいと思います。

 解散にあたり、オックスファム・インターナショナルとともにロードマップを作成して参りました。これまで国内外で取組んできた事業については、志を同じくする他団体に引き継いでいただきたいと思っております。

 マンスリーサポーターの皆様からの暖かいご支援は5月末をもって終わりにさせていただきました。またこれまでの皆様からのご寄付は、2016年の熊本地震後、現地でスタートした母子支援活動へのご寄付と、オックスファムが世界で行う人道支援活動に使わせていただきたいと存じます。

 最後に、これまで、オックスファム・ジャパンとともに、貧困、経済搾取、ジェンダー不平等のない公正な社会を目指して、ご協力、ご支援をいただきました支援者の皆様、資金提供者の皆様、連携・協力をしてくださった皆様、そしてNGOの皆様に心より感謝を申し上げます。今後は、世界90カ国以上で活動をするオックスファム国際NGO連合のメンバー団体へのご支援のほうもお願いしたいと思います。オックスファム・ジャパンは解散になりますが、貧困を克服する人々の力を信じ続け、いつかまたオックスファムが日本に戻ってくることを期待しております。

 これまで本当にありがとうございました。

特定非営利活動法人オックスファム・ジャパン

先日、韓国のフェミニズム小説『82年生まれ、キム・ジヨン』の感想をアップしましたが、そのしばらく後に私の母から、父の実家で受けた扱いや辛かった話を聞いて、まさにこの小説の中の世界だ…とあまりのタイミングの良さと合致ぶりに驚きつつ納得感もありました。もちろん詳細は小説とは全然違うのですが、慣習や血縁関係に縛られ続けた1人の女性の叫びという意味では同質的なものを感じずにはいられません。

ちなみに私の出身は九州です。あまり偏見を固定してもしょうがないのですが、Twitterで#九州で女性として生きること というハッシュタグが話題になったことも思い出しました。

九州に限らずだとは思うのですが、日本でもありふれた話で、且つまとまりもないので、特にここに記す必要もないのかもしれませんが、時間が経つと忘れてしまいそうなので、メモのつもりで残して置こうかなと思います。

ちなみに簡単に両親のスペック(?)を書きます。

母…60代、都市部出身・在住
父…70代、町村部出身、都市部在住(家業があり双方往来あり)、姉妹がいるが1人息子

上記のように父の実家は家業がある上に1人息子だったので、母は「長男の嫁」としての役割が求められました。
また、母は都市部の出身ですが、父の実家は町村部なので、結婚直後しばらくは田舎暮らしで義両親と同居することになります。この同居は約5年間で、その間に私の兄や姉が生まれました。

父の実家は

父の実家は前述の通り家業があるのですが、父の母、つまり私の祖母方が商売をしていて、その一部を祖父が受け継いだものでした。祖母の父は豪快な人で「田舎の有力者」だったようですが、祖母も豪快な性格を受け継いでいました。ちなみに、祖母の母は早くに亡くなり、継母は非常に厳しい人だったため家事等は自分でこなすように躾けられたそうです。そのことから「自分が結婚したら使用人をたくさん使う!」と心に誓うようになり、実際にそれを実行します。そのため父やその姉妹は身の回りのことを自分ですることはなく育ったそうです。(と、ここまでは母からの伝聞も含みます)

義両親との同居時代

ただ、母が嫁入りしてから使用人(というか家政婦さん)は減って、母が主に家事を担当するようになります。
洗濯は1日2回、夜出された洗濯物は朝までに乾いていることが求められたため、夜中の11時くらいに洗濯し、入浴は当然最後。朝は1番早く起床しなければならないので5時くらいに起床、しかも当時の炊事場は土間で特に冬は寒くて過酷だったと話していました。

既に嫁いでいた父の姉たちはたまに帰ってきても玄関から通され(母は勝手口からの出入り)ほとんど手伝ってくれなかったと少々恨みがましく言っていました。
単純に過酷な扱いを受けるよりも、あからさまに家庭内の他者より下の扱いを受けることは精神的に辛いのではないかと推測します。



都市部への転居

母方の祖父は事業に成功していたので、実は母もあまり不足ない生活をしていたと推測されます。だからこそ田舎での過酷な生活はこたえたのでしょう。

そして縁あってその祖父から都市部の中古物件を譲り受けることになり、そこに転居することになります(私はその1年後くらいに生まれました)。
引っ越しできたことについては、母は運が良かったと言っていました。父の実家までは当時、車で2時間ほどの距離で、父にとっては自宅と実家を毎日のように往来する生活が始まります。

写真と本文は関係ありません。



しかし、夏休みや冬休みになると、父の実家へ長期間帰って手伝うことが要求されたようで非常に苦痛だったと話していました。
これ以降は徐々に私の記憶にも残っているのですが、盆や正月になると親戚が大勢集まり、その食事の準備は母が中心となってこなします。田舎ではよくある話(?)ですが、男性は先に座って酒を飲み始めます。炊事場に入ったり配膳を手伝うことは基本的にありません。正月はおせち料理を全員分用意するので、帰省する数日前から睡眠を削って大量の仕込みを開始していました。3人分の子育ても同時進行していますからね…。

忍耐の限界

私が高校生の時に母は一度高血圧で倒れます。まさに年末、おせち料理の準備をしている時でした。当時の私は何が起きたのかわけがわかりませんでした。症状の原因がわからなかったため、むしろ母もあまり理由がわかっていなかったようでした。その年、私は生まれて初めて父の実家ではなく、自宅で年を越します。母にとっても結婚後初めてのことでした。

その後、私は大学入学とともに故郷を離れるのですが、それとほぼ同時に父方の祖父の体力が衰え、「子育てを終えた」母は介護のために頻繁に祖父母宅を訪れることになります。離れていたので詳しいことはわからないのですが、およそ2年ほどのこの時期も本当に辛かったと母は言っていました。私も姉経由で何やら大変そうだという話を聞いていました。時々高血圧の発作を起こしたり、父と揉めているというような話を。

祖父が亡くなった後も今度は祖母の介護があるため、その生活が続きます。
そしてとある事件(詳しく書けませんが)をきっかけに母は完全に体調を崩してしまいます。その後は父方の親戚の集まりなどからも足が遠のき、葬儀や法事などどうしても出なければならない場合は参加していましたが、その都度体調を悪くするなどのことも続き、今に至ります。

ちなみに父からこういう話を聞くことがないのでどう受け止めているのかはわかりません。
母としては当然不満もあるのですが、曰く「最近はよく理解してくれて配慮もしてくれている」とのこと。
ここまでなって体調も崩しているのに、全く理解も示さなかったらそれはちょっと人格を疑いますよね…。実際のところ「家を守る」ことと「妻を守る」ことの間で相当気苦労をしているものと推察します。親戚も多い中「当主」のような存在として自分の実家をほったらかす訳にもいかないのでしょうが、現実問題としてこういった田舎の家を維持するのも難しい時代になってきていると感じます。親戚も少子高齢化が顕著ですからね。




さて、本当にとりとめもない個人的な話を書き連ねてしまいました。
はじめに書いたように記録用なので自分で読み返せればそれでもいいのですが、それと同時に60代の1人の女性がこのような生活で苦しみを味わったことを残せればと思います。
これを最後まで読んだ人がいるかわかりませんが、人によっては驚き、人によっては全くありふれた話だと実感を込めたり込めなかったりしながら感じるのかもしれません。

ひとつ言えるのは、時代によって価値観は絶対に変わりますので、価値観や習慣を維持しようとすれば歪みが生まれます。母もそれまで当然だと思っていた生活が同世代の女性たちとギャップがあると気づいた瞬間があったでしょう。今後も含めてずっとそういった過渡期であり続けるはずなので、自己の葛藤や、あるいは(フェミニズムを巡る議論に象徴されるような)社会の中での価値観の衝突はどうしても起きてしまうと思うのですが、常に変化し続ける必要があること、すぐには変化についていけない存在や事象があることを頭に入れつつうまくバランスが取れればと思う次第です。
(まとめたように見せて結局とりとめがなかった!あと、ちゃんと推敲していないので変なところがあったらごめんなさい。コメントで教えてください。)


こんにちは。私は普段から自転車に乗る機会が多いのですが、毎日のように迷惑な運転や危険な運転をする自転車に悩まされ続けているので啓発というかお願いの意味も込めて、危険・違法・迷惑な自転車の運転について個人的なランキング形式で書かせてもらおうと思います。

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1位 スマホ
さて1位の「スマホを見ながら運転」ですが、これはもはや説明する必要もありませんね。スマホを見ながら運転すれば視野は極度に狭くなり、これと一時不停止や自動車や歩行者との鉢合わせが組み合わさると事故になる可能性はとても高いと思います。

過去には歩行者と激突する死亡事故もあり、話題になりました。

事故直前に少なくとも33秒間、左耳にイヤホンをつけて音楽を聴きながら飲み物を持った右手で右ハンドルを握り、左手でスマホを操作しながら走行。メッセージの送受信を終えてスマホをズボンの左ポケットにしまう動作に気をとられ、事故を起こした。
朝日新聞 2018年8月27日 ながらスマホの自転車死亡事故、元大学生に有罪判決


それでもなお、この「スマホ自転車」は日常的に見かけます。実際に、子供を乗せた状態でイヤホンをして動画を見ながら運転する猛者を見かけて仰天したこともあります。

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2位 逆走
続いて「逆走」です。これは危険というよりは「迷惑」にあたるのかもしれません(もちろん危険です)。

自動車学校に通って免許を取っている人なら常識だと思いますが、自転車は法律上は「軽車両」で、ほとんどの規則は自動車に準じるものです。当然原則左側通行です。道路の右側を走れば「逆走」です。左側通行という前提で自転車に乗っている際に正面から逆走してくる自転車がいると、当然、正面から衝突する格好になってしまいます。

私が気になっているのは、堂々と逆走している自転車が1割くらい存在していることと、彼らが左側通行の原則を知らないのでは?ということです。というのも、ほとんどの人が左側通行しているのに、正面から突っ込んできて全く譲ってくれない人が結構います。夏休みなどになると小・中学生が逆走することも多いですね。子供は自動車学校に行きませんから、学校でちゃんと教えてくれればなぁと思います。大人で堂々と逆走する人たちは免許を持っていない人かな。免許を取る人は減っているらしいので、これからそういう人が逆に増えてしまうんでしょうか…。

ちなみに、交通量の多い車道を逆走する人も見かけますね。自転車から見ても危険で迷惑ですが、車を運転する人から見ても、正面から突っ込んでくる自転車は恐怖じゃないでしょうか。



3位 一時不停止
次は「一時不停止」です。これも逆走と同じような話で、自動車の「止まれ」の標識があるところでは自転車も一時停止する必要があります。

交差点ごとに停止するのが面倒なのは気持ちとしてはわかりますが、徐行も左右確認も一切せずに交差点に突っ込むのは危険すぎます。自動車は、自分が走っている道路が優先道路であれば減速せずに交差点に進入するので、そこに突っ込むのは自殺行為といってもいいです。それでも一時不停止(徐行も左右確認も)しない自転車は大勢いて、実際にスクーターに衝突される瞬間を見たこともあります…。

以上、自転車の危険な運転ワースト3でした。

2017年に道路交通法が改正されて自転車への罰則が強化されました参考)。

ですが、実際に摘発されたという話をそれほど見聞きしないので、違反者の発見や検挙はそれほど強化されていないのかもしれません。警察にどんどん摘発しろと言いたくはないですが、実効性のある対策をしないといつか大事故になりそう(既に起きているから改正したのだと思いますが)。

参考リンク:自転車安全利用五則(警視庁)

今回は以上ですが、このテーマに関しても時々書いてみたいと思います。


無灯火もダメゼッタイ!

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以前、とある場で「見る」と「観る」はどう使い分けるのか?という話題になり、「見る」はなんとなく見る場合、「観る」はじっくり見る場合じゃないかとか、「見る」=seeで「観る」=watchではないか、という意見が出ました。

私も個人的には映画の場合は意識的に「観る」を使ったりしていたので、「観る」=「じっくり見る」という意見には納得感がありました。

でも気になってきたのでとりあえずググってみたところ、言葉の意味を比較するサイトは大量にヒットして、「観る」を「じっくりみる」とか「しっかりみる」と定義しているページは結構たくさん出てきます(大抵の場合根拠は示されませんが・・例えばこういうサイト)。

ただ、辞書を見るとこう書いてあります。

[表記] みる(見・観▽・診・看▽)
「見る」は“物の形や色を目で感じる。判断する”の意。「窓の外を見る」「テレビを見る」「朝刊を見る」「湯加減を見る」「世間を甘く見る」「見ると聞くとは大違い」  「観る」は“見物する。眺める。芝居などを鑑賞する”の意。「見る」とも書く。「桜を観に行く」「芝居を観る」  「診る」は“診察する”の意。「医者に診てもらう」「患者の脈を診る」  「看る」は“気を配って世話をする”の意。「病気の親を看る」「病人を看る」
(三省堂 大辞林 第三版)


「観る」は、「じっくりみる」と書いてあるわけではなく、「鑑賞する」ことだとありますね。

一方こういうページも見つかりました。漢和辞典を発行している出版社による解説です。
「見」「視」「観」の意味は、どれも「見る」ですが、本来の意味の違いはあるのでしょうか?


「見る」は「行為一般」だとした上で、

「視」の場合は、「視線」「注視」「凝視」などの熟語の意味を考えると、「まっすぐにものを見る」意味だということになります。「観」は、「観賞」「観覧」「景観」などから、「一歩下がってものをながめる」意味だと説明できます。

とあります。さらに、

しかし、この方法にも限界があって、「視点」と「観点」はどうちがうのかとか、まっすぐに見てばかりだと「視野」は常に狭いということになりかねないとか、いろいろとイチャモンを付けることができるのです。
こう考えてくると、『常用漢字表』が「視」「観」に「みる」という訓読みを認めていないのも、いたしかたないと思えてきます。日常生活のレベルでは、「みる」の場合は漢字にあまりこだわらず、基本的に「見る」と書いておくのが自然だと思います。

としています。

さて、どう結論づければ良いのでしょうか。

迷ったら「見る」を使う!

・基本的には「見る⊃観る」であり、じっくりみる場合に「見る」を使っても正しい。
・鑑賞する場合(芝居、映画、美術、風景など)、意識的に使い分けたいときは「観る」を使う。
ということかなと思います。
「〜〜〜の場合は「観る」を使う!」とガチガチに決めてしまうと「みわける」「みくらべる」みたいな表現を使うときに困ってしまうので、ルール化する場合は注意が必要そうです!

以上のように結論づけてみましたが、芝居や映画のようにかなり意識的に鑑賞する場合とパソコンやスマホを通して動画を閲覧する場合のメディアの境がなくなりつつあり(スマホで映画を見るということが気軽にできる)、自身が意思を持ってor好きこのんで見ているかぎりは「観る」を使いたいという要望が増えているのかもしれません。スマホやSNSの普及で活字を打ち込む機会が増えているのも相乗効果になっている気がします。

言葉は生き物ですから、今後は「見る」と「観る」の使い分けはもっとはっきりしてくるかもしれませんね。

この記事は、ブログ休止中に放置していたものを再編集してお送りします。
昨年(2018年)が明治維新から150周年ということで、大河ドラマの「西郷どん」など、関連の催しなども盛り上がっていたので…というわけでもないのですが、偶然このような本を読んでいたのです。

1979年に歴史学者の安丸良夫氏によって書かれた。かなり専門性高めだが、これを読めば廃仏毀釈についての概要はわかりそうなくらい詳しい。各藩における廃仏運動の事例や仏教勢力、特に浄土真宗による政府への働きかけなどについて書かれているのが特徴。


各藩の中でも最も廃仏毀釈が徹底されたとされる薩摩藩に注目して、地元の新聞記者さんが書いた書籍。念仏禁止などの特殊な背景の解説や地元に残る史料を丹念に読み解いて書かれています。



廃仏毀釈とは、つまり仏教排斥のことを指し、寺院を廃したり、寺院や仏像・仏典を破壊する行為を指します。明治初期には日本全国で大規模な廃仏毀釈運動が起きました。

廃仏毀釈はなぜ起きたのか?
最近興味を持ち始めて、上記の書籍を読んだばかりなので内容が薄いのはご容赦ください。言い方を変えると、概要のみなので初心者にもわかりやすいように端的に書こうと思います。

背景① 神仏習合
日本で仏教が広まると旧来の「神」への信仰との合体が見られるようになり、神社の境内に「神宮寺」が建てられ、神社の御神体を仏像とするなど、両者が渾然一体となっていきました。

背景② 寺請制度
江戸時代に入りキリシタンへの弾圧が強まると、民衆をいずれかの寺院に所属させるような形でキリシタンではない証明をさせることになりました。これを寺請制度と言います。そのため、必然的に仏教の力が強まり優勢になると同時に、寺僧の堕落を招いたり、寺院を支える民衆や藩の負担を増やしたと言われています。

背景③ 国学や復古神道の勃興
江戸時代に、日本古来の精神や思想を研究する国学が誕生し、古事記・日本書紀研究で知られる本居宣長などの国学者が登場します。また、その宣長の影響を受けた平田篤胤は古来の神道や精神を追求し、復古神道と呼ばれる新しい神道思想を作り上げました。
これらの国学や復古神道、儒教をベースとした水戸徳川藩発祥の水戸学などは、外国船の登場で動揺する幕末において、過激な尊王攘夷思想を生み出し、その思想の影響を受けた武士や公家たちが明治維新を成し遂げたことは廃仏毀釈へ大きく関係することになります。

③については、王政復古や天皇を頂点とする明治の政治体制作りに直結していく要素ですね。
この3つに江戸末期の事情を付け足すと、幕末の開国によって、それまで完全に弾圧されてきたキリスト教の再流入→再弾圧へと繋がり、明治政府はそれを引き継ぎます(浦上四番崩れ)。このことは欧米各国から批判され、キリスト教禁制を解くことになります。
成立して間もない新政府はキリスト教をはじめとして宗教が政治的不安要素になることを恐れ、新たに神道を国教化して民衆に浸透させることを急ぎました。もちろん神道が選ばれたことには③が直結してきています。

さて、このような背景の中で、1868年、新政府によって神仏分離令が出されます。その名の通り神仏習合の状態を解消するよう命令するものです。
これと前後して、藩の要職にあった国学者・儒学者の関与で廃仏毀釈が実行されたり、過激な神官・神道者が実力行使に出て寺院を破壊する行為に走るということが起きました。
それらの神官・神道者・国学者の中には新政府と関わりの多い人物や、地方に任官された者もいたため止めるものもなく実行されてしまったというケースも多かったようです(のちに処罰されたり免官された例もある)。

さて、廃仏毀釈についてはもっと複雑で面白い部分も多いのですが、ひとまず背景についてまとまったのは以上くらいなので、また後日まとまればぜひ書いてみたいです。

それでは!

慈眼寺跡

↑鹿児島県鹿児島市の慈眼寺跡にて。筆者撮影。慈眼寺は、薩摩で3本の指に入るほど栄えたが、明治2年に全山破壊され、今ではこの仁王像やその他石像などの一部の史跡が残るのみ。